興福寺 中金堂(ちゅうこんどう)
中金堂の特徴
・中金堂は710年の平城遷都と同時に創建
・その後、6度も焼失・再建を繰り返し
・現在の建物は2018年に再建されたお堂(※)
・創建時の様式を再現している
・慶派工房による四天王もいる
(※)仮堂を含めなければ、およそ300年ぶりの再建となります。
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拝観レポート
券売所で拝観料を支払い、中金堂へ。
新しいだけあって、とてもきれいですね。
華やかだけれどもけばけばしさはなく、上品です。
中金堂の仏像たち
金ぴかの釈迦如来坐像
お堂内に足を踏み入れると、金ぴかの釈迦如来坐像が迎えてくれます。
撮影禁止なので写真はありませんが、なんとなくのイメージをつかんでいただくため、パンフレットを撮影したものを。
あまりにも金ぴかなので、中金堂の再建を記念して、新たに造られた仏像なのかな、と思ったのですが、仏像自体は江戸時代に造られたものだそうで(1811 赤尾右京作)、再建の際に、金を貼り替えたのだそうです。
(拝観中、「こちらは国宝か重要文化財ですか?」とお寺の方に質問していた紳士がいました。お寺の方によれば、「国宝でも重文でもないのですが、だからこそ金の貼り換えができたんですよ」とおっしゃっていました。なるほど!!)
台座に座ったお姿なのですが、金の衣が台座から垂れる感じがとてもきれいでした。
薬王・薬上菩薩
金ぴかの釈迦如来の脇を固めるのは、薬王・薬上菩薩立像。
釈迦如来の脇侍といえば、文殊菩薩と普賢菩薩がメジャーかな、と思いますので、薬王・薬上菩薩とは珍しい気もしますね(薬王・薬上が脇侍となるのは古い様式のようです)。
薬王・薬上菩薩は、その名からも想像のつく通り、「良薬を人々に与え、心と身の病気を治した(中金堂パンフレットより引用)」方々。
現代風に言い換えれば、伝説のお医者さんや薬剤師さんといったイメージですかね。
ちなみにお二人は兄弟です。
厚ぼったい上まぶたが印象的でした。
四天王は国宝
須弥壇の四方に位置するのは、仏教ではおなじみ「四天王」。
鎌倉時代の作品で、国宝に指定されています。
一目見た瞬間「はっ、どこかで拝見したぞ」と思い、記憶やら記録をさぐったところ、2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」が思い出されました。
『芸術新潮』の運慶特集にも写真が載っています(買いました)。
表紙を飾っているのは多聞天。
上記の雑誌によれば
持国天:湛慶(運慶の長男)作
増長天:康運(運慶の次男)作
広目天:康弁(運慶の三男)作
多聞天:康勝(運慶の四男)作
なのだそう!
息子さんたちがみんな腕の良い仏師って、すごいですね。
(五男と六男は北円堂を担当)
こちらの四天王、以前は南円堂に安置されていたようなので(『芸術新潮 2017年10月号』P.86より)、中金堂の完成に伴い、お引越しされたようです。
とにかく迫力がすごい。
特に増長天の目力。
圧倒されました。
大黒天と吉祥天も
須弥壇には他にも、大黒天と吉祥天が安置されています。
吉祥天のほうは逗子に入っており、その扉は閉じられていました。
大黒天のほうは、私たちがイメージするいわゆる「大黒さま」とは異なったお姿でした。
小柄で、少年のような印象。
お顔も怒りの表情。
元々は大自在天の化身として、怒りの顔をした厨房の守護神でした。本像は厳しい表情を残し、頭巾をかぶり、短い袴をつけ、袋を左肩に背負って直立します。
興福寺 中金堂 パンフレットより引用
こちらがもともとの大黒天で、私たちがイメージしがちな「大黒さま(大きな袋を担ぎ、打ち出の小槌をもち、俵の上に乗っていたり、柔和にほほ笑んだりしている太めのお方)」は後世に流行した容貌なのだそうです。
知れば知るほど奥深いのが仏像の世界ですね。
法相柱(ほっそうちゅう)
須弥壇の手前にあるのが法相柱。
法相宗の祖師たち(無著、世親など)が描かれた柱です。
こちらは今回の中金堂再建のタイミングで描かれたものだそうです。
ぱっと目をひく鮮やかな色彩(上に載せたパンフレット写真の右側)。
ロイヤルブルーに僧たちの衣のオレンジが映えていました。
ターコイズブルーや、グリーンもきれいです。
こういった新しいものは、今後、どのように色や質感が変化していくか、楽しみでもありますね。
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おわりに
平日の午前中でしたので、混雑もなく、興福寺中金堂を目いっぱい堪能できました。
どの仏像もそれぞれに個性があって、良かったです。
強いていうなら、やはり慶派の四天王は見ごたえありますね。
興福寺 全体像をざっくり紹介>>>興福寺【境内案内】- 国宝密度がトップクラス 仏像がすごいお寺
shishi-report-2.hatenablog.com
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